志太温泉 潮生館/潮生館の歴史


明治10年代の終わりに、この地に湧き出でる鉱泉を利用して湯治場として開発した地元の有志により「棄杖亭」が建てられました。 その後、さらなる発展をと、明治22年に当時の豪商野口 善三郎・野口荘三郎氏が 「棄杖亭」 を廃し、「潮生館」 を建設しました。

建設当初は営業が振るわず、野口氏は解決策として現潮生館の先々代である下坪 宗次郎を招じ入れ、潮生館の経営を委ねることにしました。
これが現潮生館の始まりです。

若干21歳で旅館経営に当たることになった先々代も当初は経営に苦労しましたが、施設を買収、充実させ、宣伝を活発化するなど工夫や苦心を重ねた結果、ようやく経営を軌道に乗せることができました。(竹の間には日本画家の青島 蘭秀先生によって描かれた、当時の当館の全景の掛け軸があります。)

その後、犬養毅や浜口雄幸、後藤新平、若槻礼次郎、尾崎行雄氏等、中央の政・財界の大物の方々や梨園の名優の投宿を陸続と得られるようになりました。
こうして経営を大きく発展させることができた潮生館は、昭和8年に離れの「香梅荘」を、昭和14年には明治22年に建てられた本館を全面的に改築しました。

これらは平成16年に国の有形文化財として登録されましたが、建物のそこかしこに大工の棟梁 (松永 十九八) や職人たちの心意気を窺うことが出来ます。
昭和36年には宿泊需要の変化を見越し、宿泊客をメインとした施設にすべく新館4室を増設しましたが、今年これらの水廻りの設備を充実すべく改装しました。

この度の工事で作業に当った職人さんたちが、昔の人たちの心意気に負けまいと 「職人気質」を存分に発揮してくれたのは、この上ない喜びです。


「運用之妙存乎一心」の碑

当館の入り口に高さ3mほどの石碑が立っておりますが、この碑は、志太温泉を大きく開いた野口善三郎氏の功績を、友人の歌人中村 秋香氏が讃え、志太地区の材木商等の有志によって立てられたものです。
もとは、志太温泉の向かい側にあった姥神社の入り口にありましたが、近年の道路拡張時に、神社は金比羅山に移され、碑は現在地に移されました。

題字 「運用之妙存乎一心」について

中国の南宋の武将 岳飛(がくひ) が、戦略について述べた言葉とのことです。
「どんなよい戦略でもそれを活用する人の心の働きによってかわるものである。」ということで、法則や秘訣はそれを運用する人によって妙味を発揮するものである、ということを言い表しており、野口氏の志太温泉開発に臨んだ姿勢をよく偲ばせる言葉であると思います。
題字を書かれたのは、有栖川熾仁(ありすがわたるひと) 親王で、有栖川宮家は四大宮家の一つ、大正時代に高松宮となられました。歴代、書道・歌道の師範を勤められた家柄です。
戊辰戦争の東征軍 (官軍) 大総督。また西南戦争の征討軍総督。 後に陸海軍全軍の参謀総長となり、日清戦争中に没せられました。

野口 善三郎氏と中村 秋香氏について

野口氏は甲斐の人野口甲斐守の末裔で東京深川で材木商を営み、明治の鉄道敷設に際しては、枕木を納めて功を賞せられました。大井川系の材木を島田に集めるなど、当地方にも縁がありました。
中村氏は静岡出身の歌人で漢学を納めて教部、内務、文部の各省に勤め、一高の教鞭もとりました。明治30年には御歌所寄人となられました。
野口氏とは友好の仲で、よく二人で当館に遊び、その話題は歌 (和歌) の話が多かったとのことです。


姥神社

志太温泉をはさんだ向かい側にあってご神殿は山の上にありました。祭神は塩権神 (シオツチノカミ) 安産子育ての守り神で、志太温泉の氏神様として毎年4月3日に志太地区の人達が来てお祭りをしました。
昭和56年、道路の拡張工事に際して金比羅山公園に移し祀られました。


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